仕事のやりがいって

「今やってる仕事にやりがいを感じない」と後輩が言う。
どういうことかと尋ねれば「自分は今この場所での仕事をやり切った。自分はもっと他の業務を覚えて活躍したい」のだと言う。

その様子を見て、いわゆるルーティン業務に飽きたのだと思った。
私の会社はBtoCであまり大きな会社ではないし、課や部でそれぞれやることは違っても、結局お客様と直接関わることがほとんどだ。関わらないのは総務とか経理とか人事くらいなものだ。

仕事をやり切ったというのはどういう意味なのか私はわからない。お客様と直接やり取りすることが多い仕事で、やり切ることが、私はあるとは思えない。
一人ひとり全く違う要求をしてくるし、常にそれに応えなくてはいけない。特に後輩は主任の立場だったからある程度のクレーム対応だってしていた。それが辛いというのなら分かるが、やり切った、という言い方に私は疑問を感じた。

続けて後輩はまた「やりがいを感じない」のだという。
そう聞いて、ああそういうことかと合点した。つまり、もうつまらないのだろう。嫌なのだろう。毎日お客様の相手をして、スタッフたちの動きを見て、合間に事務処理をして、そういう接客主体の課のルーティンに飽きてしまったのだろう。

飽きてしまった、もう接客から離れたいのだといっそはっきり言えばいいのに、後輩は決してそうは言わず「今の業務にやりがいを感じない」とそればかりを頑なに言う。
やりがいを感じる仕事をしたい。と、あくまで後輩は前向きなように言う。
その後も話を聞いてみれば、今の仕事はやり切った、やりがいを感じない。自分の能力が発揮される場所はここではないという事を言いたいようだった。
私にもそれに対して、同意をしてほしいようだった。

そのルーティン業務を十年続けている課長に対して、言いたい放題だなと思ったが、後輩が三つ年下であることを考慮してぐっと飲み込んだ。
私も出来た人間じゃないから、そこまで自分の仕事に対してやりがいがないと言われ続ければ腹も立つ。

結局、求めるやりがいを感じながら仕事が出来る人間なんているのだろうか。
やりがいを求めるのは別に良いのかもしれないが、そればかりが先行するのは単なるわがままなのではないかとも思う。

というか、やりがいってどういう意味なのだろう。
私は彼女が言う「やりがい」が単なるわがままにしか聞こえなかったのだ。今の仕事が楽しくないから、もっと自分が楽しい仕事をしたい。今の仕事では私の力が発揮されないから、もっと力を発揮できる場所に異動したい。

キャリアアップを望むのは勿論自由だ。会社にも求めて良いと思う。ただ、それを「やりがい」という耳障りの良い言葉で誤魔化すなと思った。
「やりがいを感じないから他の仕事をしたい」と言う人間は、きっと次の仕事でもいずれ同じことを言う。絶対に言う。
その「やりがい」が実に曖昧で稚拙だからだ。やりがいを求める人間が、真のやりがいにたどり着けるとは私は思えない。

やりがいを感じることは良いことだが、求めてはいけないと思うのだ。やりがいはきっと受け取るもので、自ら手を伸ばすものではないと思う。

私は、やりがいを求めることはあまりない。これがやりがいだー!と、思った事も無い。
仕事に対して割り切りがあるからなのだと思う。つまらないとか、楽しいとか、そういう判断をする対象ではない。
でもお客様からお礼を言われれば嬉しいし、役に立てて良かったと思う。でも考えてみれば、それをやりがいと言うのだろうか。しかし後輩が言う「やりがい」は、そういうのとも別なように感じた。

後輩は、自分の能力が完全に発揮される場所を求めているようだった。その能力が発揮されることを「やりがい」だと後輩は思っているのだと受け取った。

考え方は様々だし、仕事にそういうやりがいを求める人間がいるのは当り前だと思う。
楽しくないことはしたくないし、どうせ仕事をするならば楽しいほうが良いに決まってる。自分が認められる仕事をしたいに決まっている。

だが、それが叶う人間がどれほどいるかと思う。
楽しくて認められて、やりがいを感じまくれる仕事で給料を稼いでいる人間が、この世にどれほどいるのだろう。いたとしても、一割に満たないくらいなんじゃないかと思う。

金のために働け、というのはもちろんそんなつまらない人生はない。でも、結局人間は金がなければ生きていけないし、生きる喜びを感じるにはある程度の金がいる。
そのためには労働をしなければならないし、税金だって払わなければいけない。それって、すごく残酷だけれど紛れもない事実だと思う。

できるなら楽して生きたいし、税金だって払いたくないし、高級品食べて旅行して贅沢だってしまくりたい。
でも、自分が持っている能力の中で仕事にありつけて、金を稼いで、必要最低限の暮らしをしていく。その合間に、少しだけ贅沢をしたりする。それが今の日本で生きていく中で、一番の一般的な幸せなんだと思う。

つまり、やりがいというのを求めて仕事をしたいと、それを叶えられるのはほんの一握りだと言いたい。
それを目指すのは自由だが、現状に様々な理由をつけてやりがいを求めるのは、単なるわがままだ。小学生レベルの、実に子供じみたわがままだ。

五年程度で今の仕事をやりきった、とそんな事を言える程度の浅はかさで、やりがいを求めるのは滑稽だと思ってしまった。
やりがいを求めていると、そのうち潰れると思う。だって、やりがいを求めている時点で、その気持ちをすべて満たせる仕事とは出会える可能性なんてほとんどないからだ。

本当に求めるのなら、きっと起業するべきだ。自分がやりたいと思う仕事を、自分だけの力で作り出すべきだ。それが形になった時、きっとやりがいを感じるんじゃないだろうか。

私も社会に出てしばらくして慣れてきた頃、仕事がつまらないとか、やりがいが無いなとか、思っていたことはあった。
でも、任された仕事を正確にこなすとか、任された責任に応えるとか、そういうことで会社を成り立たせる構成の一人となり、給料を貰っているのだと気付いてからは、あまり悩まなくなった。

感情がなくなったとか、そういう訳では無い。
ひどいクレームにあたったり、うまくいかないことがあって落ち込んだり悲しくなったりすることはある。辞めたいと思うこともあるが、社会に出ていればそんなことは沢山あるに決まってる。
でも、その中で自分の成長を感じることは出来るはずだ。
クレーム対応なんて最たるもので、お客様が何を求めているのかを感じ、どう対応すれば収まるかという会話のテクニックは経験が物を言う。

つまり、こうして考えてみれば、私は私なりのやりがいを感じていたのかもしれない。
気の持ちよう、受け取り方次第なのだろう。
後輩だって何度もそういう機会はあったはずだ。お客様からお礼をいただく経験も、クレーム対応をして、場を収めた経験だってあるし実際に見ている。
後輩が提案して取り入れたルーティン業務だって、今は必要な業務として皆が毎日回している。
だがそれは、彼女の求めるやりがいにはなれなかったのだろう。

やりがいを感じることは、きっと必要なことだ。ただ、やりがいを求めて自分を過大評価することは危険だと思う。

置かれた場所で咲きなさい、と聞くが、まさにその通りだと思う。置かれた場所で、どう咲くかは己次第だ。
咲くのがこの場所ではないと思うのなら、転職をするべきだ。ぐだぐだと文句を言うならば、さっさと納得のいく行動へ移すべきだ。後輩の求めるやりがいは、きっとこの会社には無い。

もちろん、後輩にはそこまで言わなかった。ただ三歳年上の私が、偉そうに言えたことではないからだ。
この考えが正しい訳は無いし、言ったところで私の意見の押しつけでしか無い。

ここに言語化することですっきりした。
後輩が納得の行く結論にたどり着くまで、見守っていようと思う。